書いた人:まっつごー
みなさんこんにちは。京大きらら同好会副会長のまっつごーといいます。個人で記事を出すのは初めてでしょうか。
ある会員の提案から始まったこのリレーブログ企画も早十本目になりました。他の会員の記事を読んで普段の会話ではなかった新しい発見をしたり、界隈に新たな話題を提供したりと、会の活動がまた新たな形で結実したことにとても嬉しく思います。これからもこの企画と当会をよろしくお願いします。
僕と「つむつき」の出会いは……恥ずかしながら当会を再建した後のことになります。ご存じの通りじゃすみん会長の猛プッシュと「ぷりぷりプリン」のタテカン制作もあり単行本、それから最新号まで一気読みしたのが去年の初夏の頃でしょうか。何というか「つむつき」は……月並みな表現ですがとてもいいですね。丁寧な時代考証に裏付けられた女学生たちの日常と、数々のきっかけから変わっていく紡と唯月の関係。と、愛を語るのはいったんここまでにしましょう。今回のテーマは「聖地巡礼」です。
時間的で空間的なノスタルジア
「つむつき」の舞台はご存じの通り大正時代の帝都・東京です。大正から令和に至る百年というのは見方によって長かったり短かったりするものですが、町並みや社会構造から感じられる「長さ」とは対照的に、僕には作品の舞台が東京であることからある種の「短さ」を感じられました。
突然の自分語りになりますが、僕の故郷は東京です。(「おちフル」的な「東京」でもなく、かといって末延邸があるような都心でもありません)そして、僕は京都大学の一回生です。これが何を意味するでしょうか……そう僕は去年の春、東京を後にしました。しかし失ってから大切なものに気付くというのは今回も例外ではなく、大学生になってからというものの故郷でもあり巨大な都市構造でもある東京へ憂愁と憧憬の混じった複雑な想いを抱いていました。
ここで「つむつき」に思いを馳せてみましょう。「東京」「銀座」「上野」……現代ではおよそ異質な町並みではありつつも、かつてよく耳にし実際に生活の一部でもあった地名の元で彼女たちのドラマが繰り広げられていました。僕がかつて属していた生活圏は、間違いなく彼女たちがその昔日常を過ごしていた土地だったのです。時間的に隔絶されていても懐かしい響きに焦がれる想いは変わりません。ここでは「つむつき」の東京における聖地を個人的な思い出も交えて紹介していきたいと思います。
銀座~日本橋
紡がはじめて大正時代に降り立ったのはご存じの通り銀座です。銀座といえば、今では中央通り沿いにビルが建ち並び、そこには最先端のブランドや歴史ある百貨店などが軒を連ね東京を代表するおしゃれ街のイメージでしょうか。江戸時代にはその名の通り銀貨の鋳造を独占的に扱う「銀座」がおかれ、幕末には衰退し明治五年には大火に見舞われるものの、その後イギリス人建築家の設計により再開発が行われ、当時の最先端の店が集まる「ハイカラ」な街へと変貌を遂げました。「つむつき」に登場する銀座は関東大震災でレンガ建築が壊滅する前の街の雰囲気を色濃く残しています。
また中央通り沿いには北から日本橋~京橋~銀座~新橋……と街区が連続して形成されており、新橋駅から上野駅まで歩けば副都心ではない側の、古くからの東京(江戸)の町並みを丸ごと実感することができます。まずはこのルートで沿道の聖地を巡ってきた様子をお届けします。
紡が大正時代にタイムスリップして目を覚ましたのは銀座八丁目、博品館前です。かつて博品館勧工場(百貨店の前身のようなものです)がありました。銀座八丁目交差点はちょうど銀座の南端にあたり、南側にかつて流れていた汐留川にはかの有名な新橋が架かっていました。ここから少し南に歩くと東海道線の新橋駅(二代目)に辿り着くことができます。
博品館勧工場はその後廃業し、一時他の店舗として歴史を歩みましたが昭和五十三年に現在のビルで復活、その後は博品館TOY PARKとして営業しています。
また南側の汐留川は昭和三十四年の東京高速道路の建設に伴い埋め立てられ、その際明治期に掛け替えられた新橋も廃橋となってしまいました。その際撤去された親柱が中央通りの歩道に保存されています。
すぐ北の銀座七丁目には資生堂パーラーがあります。深紅のビルが特徴的。こちらは今でもカフェ営業を続けられているそうです。(今回は入りませんでしたが……)
続いては第一話で紡が見つけた木村家。作中では田村屋となっています。「木村屋」の印象的な看板は文字の形をそのままにして現代風にアレンジされています。僕も紡たちと同じようにあんパンを買ってみることに。小ぶりながら皮のしっかりしたあんパンはあんこの甘さも相まって非常に上品な味わい。味もバリエーション豊かなのがいいですね。あんパン片手に銀ぶら……とても乙な楽しみ方だと思います。
こちらは銀座四丁目の角の和光本館。ちょうど銀座線と日比谷線の銀座駅が交差する位置で、木村家の南隣にあります。和光の時計塔は震災後昭和七年に建て替えられ、現存しているものは二代目のものです。一巻の扉絵にあるのは明治二十七年に竣工した一代目のもの。(原作のアングルの位置がよくわからなかったので全景の写真に代えさせていただきます)
またこの写真の奥に映っている山野楽器本店は日本一地価の高い土地として有名です。(公示地価による)なんと一平方メートルあたり5380万円にもなるそうです。
「つむつき」本編とは何も関係ありませんが、ちょうど銀座の真ん中あたりでお昼頃だったので一度七丁目へ戻り、かの有名なビアホール「ライオン」でお昼をいただきました。ここは昭和九年に竣工した現存する日本最古のビアホール。レンガ調の内装や美しい装飾、大広間に雑然と敷き詰められたテーブルは非常に趣のある様子でした。
お腹を満たしたら銀ぶら再開です。突然ですが、僕は銀座に来た時ほぼ必ず三丁目の伊東屋で文房具を物色します。五丁目の鳩居堂が魅せる雰囲気とは対照的にかなり現代的でおしゃれなお店です。銀ぶらとは銀座でしか出会えない店を物色する楽しみであるといえるでしょう。電車で移動していると絶対にわからない街の面的な広がりを感じ取ってください。
しばらく北へ歩き京橋を越え、東京駅を左手に見送ると日本橋に着きます。個人的には渋谷、新宿といった副都心も魅力的ではありますが、この中央通りの界隈を歩くと整然とした路地に立ち並ぶ小綺麗なビル群や入居している錚々たるブランドに東京を感じます。東京駅周辺では八重洲口の雑居ビル群が再開発され、銀座~京橋とは一変して現代的な趣がありますね。
日本橋は言わずと知れた日本の道路の出発点です。橋の中央には「日本国道路元標」が埋め込まれており、ここから東海道はじめ五街道が日本各地へ伸びていきます。しかし車道の真ん中にある本物の道路元標を撮るのは至難の業ですから、このように歩道にレプリカが展示されています。
しかし現代の日本橋は、浮世絵で描かれたような……あるいは大正時代のような明るい光景とはほど遠いものとなってしまいました。昭和三十八年、都心の慢性的な交通渋滞を解消するため、また東京オリンピックをにらんだインフラ整備として首都高の都心環状線が日本橋川の上空に建設されます。用地買収にかかる期間を短縮するため川や道路の上空、場所によっては川を埋め立てて建設されました。(汐留~銀座~京橋など)
車線間に突然橋の橋脚が現れたり(首都高より橋の方が古いということです)ビル群を縫った高架などこれはこれでそそる面もありますが、やはり日本橋の今の光景は残念なもの。また道路そのものの老朽化の問題もあります。
そこで現在日本橋周辺の都心環状線を地下化し2040年(令和二十二年)をめどに高架道路を撤去する計画が進行しています。計画の第一段階として令和四年(2021年)呉服橋、江戸橋出入口が廃止されました。計画通りならばあと二十年もしないうちに日本橋に再び青空が戻って来ます。
また首都高の高架にはかつて都電の架線を支えていた架線柱と一体になった道路元標もあります。そういえば、紡がはじめて目を覚ました銀座八丁目のシーンでも、現代ではなく大正時代であることを読者へ伝えるシンボルとして市電の車両が描かれていました。
東京における路面電車のはしりは明治後期に建設された馬車鉄道が電化されたもので、以降震災や戦災をはさみながらも最盛期には二百キロを超す営業区間を擁しました。しかしモータリゼーションの進展により路面電車が渋滞の原因とされたことや、地下鉄の延伸により採算が悪化したことで昭和四十七年に荒川線の一部区間を残しすべて廃止されてしまいます。
現代では再評価される向きもある路面電車ですが、東京都下においては道路状況を鑑みると復活は望むべくもないでしょう。ところどころ残される架線柱の跡や都バスの系統、地下鉄の路線にその面影を留めるのみとなっています。
日本橋北詰まで向かえばついに日本橋三越が見えてきます。第十七話のお買い物シーンはここが舞台です。
上野
日本橋からそのまま中央通りを北上すれば、神田のオフィス街や万世橋駅の遺構、秋葉原の電気街を後目に上野公園へ向かうことができます。今回は少し疲れていたので銀座線で飛ばしてしまいましたが、神田界隈もなかなか魅力的です。言わずと知れたカレー激戦区、味はどこも文句なしだと思います。
軽井沢回の待ち合わせ場所であった上野公園は江戸時代寛永寺の境内でしたが、上野戦争を経て明治時代に官有地となったのち宮内省から東京市に下賜され、上野恩賜公園として一般に開放されます。
かの有名な西郷隆盛像は明治三十一年に建立されました。二次大戦中の金属供出も免れいまでも上野に鎮座しています。
第二十四話の扉絵のモチーフのここは旧帝国図書館。上野公園の奥側、東京藝大のほど近くのこの建物は現在国会図書館に付属する国際子ども図書館として利用されています。この建物は明治三十九年竣工……つまり関東大震災による損傷を逃れています。こちらも内外装ともに威厳たっぷり。
旧前田侯爵邸
みなさんこの玄関の形、そしてこの構図に見覚えはありませんか?そうここは末延邸のモデルとなった旧前田侯爵邸です。渋谷区駒場の東大駒場キャンパスに隣接して存在します。関東大震災後、かつてあった駒場農学校(現・東大農学部)を本郷の加賀藩上屋敷跡へ移設させる代わりにこの地を旧加賀藩主前田侯爵家と旧制一高(現・東大教養学部)、東京農業教育専門学校(筑波大農学部の前身、キャンパス現存せず)で分割した後鉄筋コンクリート造の洋館、また木造の和館がそれぞれ昭和四年、五年に竣工しました。戦前、戦中は当主前田利為の私邸として利用され、また侯爵はロンドン駐在武官であったことから民間外交にも用いられたといいます。
しかしこの建物を巡る運命は一変します。当主利為侯が二次大戦中ボルネオ沖にて不慮の航空事故により戦没します。その後この敷地は中島飛行機などの手にわたったのち、終戦後はGHQ司令官の私邸として接収されてしまいます。昭和三十二年に接収が解除され、紆余曲折ののち昭和四十二年には都立駒場公園として一般に公開され今に至ります。(現在は目黒区が管理)
毎週火~日曜に一般公開されている前田侯爵邸ですが、実際中に足を踏み入れてみると息を呑むような内装の質、品格に目を奪われてしまいます。公開に際して内装から調度に至るまで復元工事が行われているそうで、竣工直後の前田侯爵家が暮らしていた様子がよく伝わります。「つむつき」でもこれはよく再現されていて、(一部部屋割りなど構造には手を加えられているものの)原作で見たことのあるようなアングルから覗けばまるで紡たちがそこで生活しているような感覚です。
このような貴重な建築が現存し、かつ無料で公開されているなんてすごいですよね。東京を訪れる際はぜひ。隣の東大駒場キャンパスにも文化財級の建築が多く残されているほか、渋谷や下北沢にもほど近いのでそちらも。
補遺:横網町公園
大正十二年(1922年)九月一日、午前十一時五十八分、関東一帯を未曾有の大地震が襲いました。揺れによる直接の被害もさることながら、帝都東京を灰燼に帰したのはその後巻き起こった火災でした。
お昼前、多くの家屋が昼飯の支度をしている中での大地震は容易に火災を引き起こします。
幸い貴族などの邸宅が多く立地する麹町区(現・千代田区)などは火災の被害は少なかったようですが(第三十九話で唯月以外が無事だったのがそれを物語っています)銀座の位置する京橋区や日本橋、深川、本所などには木造家屋の密集する区域や耐震性の低いレンガ建築が数多存在しました。そこへ大火災が襲います。住民たちは川や空き地などへ命からがら逃げ込みますが、そのうちの一つが本所区両国、蔵前橋のほとりにある陸軍被服廠跡でした。
しかし広大な空き地といえど猛烈な火災旋風の前には無力でした。ここではおよそ3万8千人もの方が亡くなったといわれています。
震災後ここは都の慰霊施設として整備され横網町公園として公開されます。展示の子細についてはあえて触れません。震災の惨状ををありありと物語る実物を直接目に焼き付けここで何が起こったかを感じ取ってください。
その後急速に復興していく東京は、おそらく作中で直接描写されることはないでしょう。しかし、ありきたりな「きらら」的表現になりますが「彼女たちの日常はこれからも続いていきます。」これから彼女たちが目にする東京の光景とは、街を襲った悲惨な光景とは裏腹に希望に満ちた復興の物語でもあります。現代に至る東京の成り立ちを理解するという側面からも、つむつきストのみなさんが東京を訪れる際は「存在しない聖地」としてこちらも頭の片隅に置いていただけると幸いです。
参考文献
ちうね「紡ぐ乙女と大正の月(1~3)」芳文社
「銀座公式ウェブサイト」(https://www.ginza.jp/history)
「和光と時計塔の歴史」(https://www.wako.co.jp/clock_tower/)
「歴史を訪ねて 旧前田家本邸」目黒区(https://www.city.meguro.tokyo.jp/kuminnokoe/bunkasports/rekishibunkazai/kyumaeda.html)
「都立横網町公園の歴史」(https://tokyoireikyoukai.or.jp/park/history.html)